ケアカンファレンスで、「特定利用者のケアが特定職員に偏る」とときどき話題になることがあります。このこと自体をいきなりよいとも悪いとも言い難いのですが、カンファレンスで話題になるときはよくないケースである場合が多いです。
例えば、何らかの理由(認知症等)でコミュニケーションの土台を築くことに工夫や忍耐が必要な場合、そうした方とのコミュニケーションが得意であったり粘り強さがあったりする職員が対応すればうまくいき、そうでない職員が対応するとその場その場はうまくいかなかったりします。
すると、「得意な職員がやったほうが早い」となったり、不得意な職員が対応そのものを敬遠したりすることで経験量が偏り、さらにうまくいく職員といかない職員の差が開いてしまいます。
一方、「得意な職員」にとってもときどき、「うまくやれる自分」がひとつのやりがいというか、持ち場感のようなものとなり、業務を囲い込んでしまうこともあります。これも差を広げる原因となります。
また…あることが得意な職員が、別のことが苦手だったりする場合、なんとなくお互いに得意なことに集中して仕事したほうが気楽であったりして、よく言えば阿吽の呼吸とも言えますが悪く言えば「慣れあい」となりそれが固定化してしまうということもありがちです。
職員の個性とケア において述べた「個性・・・誰かでなければならない」という観点でいうと、これらは否定すべきことでないように一見感じられます。特に「得意な職員」にとっては、自らの有用感を感じることができ、まさに個性を認められた感覚、自信すら持てそうです。
しかし、ここで間違えてはならないのは、個性とはパーソナリティ=人格を言っているのであって、スキル=技能と混同すべきではないということです。
「スキル」を持った「得意な職員」についてはもちろん問題にする必要はありませんが、利用者とある程度円滑にコミュニケーションを図ることができるということは介護現場であれば一定程度持ちたい「スキル」です。それをハナから持つチャンスがない・あるいは持とうとしないことは問題であり、それを「個性」などと言い出したらおかしなことになるでしょう。
確かに、「性別」や「年齢」など技能とは無関係な属性がコミュニケーションのしやすさに影響したりすることもあることは否定できません(若い女性職員の言うことだと聞いてくれない など)。しかし、「そういうこともあるが」という話と、「そういうものだ」という話は同じではありません。
あくまで「いち介護業界の者として、基本的なスキルは身につけ」「そのうえで個性を活かす」ということ、さらに「それを現場の基本的了解事項とする」ということが必要と思います。